肥前国
肥前国は現在の佐賀県にあたり、佐賀の鍋島家三十三万石、平戸の松浦家、唐津の土井・水野両家などがそれぞれの領地を治めた。
鍔工としては、佐賀の若芝、または矢上の矢上一派などが知られている。
また、江戸時代に唯一の海外との門戸であった長崎では、「南蛮鍔」と呼ばれる、清国のものを模倣した独特の鍔が流行した。
若芝 ( じゃくし )
- [ 鉄地丸形金象嵌鐔 ]
銘・若芝
江戸時代
佐賀の若芝については諸説あるが、同じ河村氏を姓とし、若芝を名乗る人物が2人いたと推測されている。
すなわち、画業を本業とする若芝は竜造寺家の武士の出といい、、長崎に出て崇福寺で中国僧の逸然に絵を学び、北宋風の仏画や花鳥山水画を得意とした。
そしてもう1人の若芝は同じく河村氏の出で、喜左衛門といい、画家の若芝から画法や鍔工法の技術開発の点で協力を受けたとされる。
これが鍔工の初代・若芝である。
喜左衛門を初代とする若芝派は、その後数代続き、鉄地丸形に風竹・山水・雲竜図などを彫り、腐らしや布目象嵌の工法を得意とした。
銘は草書体で"若芝"と二字に切ることが多い。
南蛮鐔
- [ 南蛮鐔 ]
無銘
江戸時代
「南蛮」とは、一般にはポルトガル・スペインなどのヨーロッパの国々を指す言葉であるが、鍔で「南蛮鍔」と言うと、はじめ中国から輸入され、のちに長崎などを中心に製作されるようになった異国情緒が漂うもののことを言う。
さらには、全国各地でも製作されるようになったようである。
多くは、双龍や唐草などの文様、あるいは文字などを彫り、金銀の布目象嵌などを施したものである。
九州の長崎では鬼武利吉・利昌一族、平戸では国重一門、肥前では若芝一派、肥後国では刀匠信国一派なども南蛮鍔の製作に当たっていたと言われる。
このような異国情緒溢れる南蛮鍔は、当時、日本国内で大流行した。