鐔の歴史と種類 - 寿楽堂株式会社

鐔の種類

1 後藤家
2 鐔工
3 江戸金工
4 京都金工
5 地方金工
後藤家

後藤家は装剣小道具に関してもっとも著名な名流である。 始祖の祐乗 (1440 - 1512) が足利時代後期に出現してから、徳川時代末期に至るまで、ほぼ400年の年月を継承し、我が国日本の彫金界に君臨したのみでなく、財務や政治・文芸など多方面にわたって活躍した。

後藤本家

後藤宗家は、始祖の祐乗から第17代の典乗まで続いた。6代栄乗のとき、家康より幕府の分銅大判改め役および彫物役に任命された。

後藤一乗

後藤一乗は、後藤家の棹尾を飾る名人で、伝統的な家彫 (いえぼり) より出発し、次第に作風を広げ、赤銅以外の素材も用いて伝統からの脱却に努めた。門人にも名工が多い。

後藤支家

後藤家は四代・光乗、五代・徳乗の頃から続々と分家がでて、それぞれ活躍した。すなわち、理兵衛家・喜兵衛家・源兵衛家・江戸清乗家など14分家で、宗家に対しこれらを「脇後藤」と呼ぶ。

鐔工
刀匠鐔

刀匠鍔は、鉄地に小透かしを配した鉄鍔で、耳は丸耳となるものが多く、素朴な透かしと練れた地鉄に独特の味わいがある。刀匠が余技として製作したものと言われているが異論もある。

甲冑師鐔

甲冑師鍔の定義は、甲冑師が作った鍔というのが定説になっているが、本当に甲冑を作る人が鍔をも作ったのかとなると疑わしい。 むしろ、この種の鍔には、梅花や桜花の透かしがよくあり、これが甲冑に付属する面頬の耳の部分によく似ているから甲冑師鍔と呼ぶようになったとする説のほうが真実味がある。 甲冑師鍔の作り手は、甲冑師を含む、すべての鍛冶を行う者と考えるほうが自然である。

応仁鐔

応仁鍔は「応仁の乱」の頃に創始されたことからそう呼ばれる。 作風は、甲冑師鍔の流れを汲むと同時に、鎌倉鍔にも似通うところがある。すなわち、薄手の板鍔で、槌目仕立ての鍛えをしている。 鉄地に真鍮象嵌がしてあり、切羽台や櫃穴の周囲をぐるっと縁どりがしてある。

平安城式真鍮象嵌鐔

平安城式真鍮象嵌鍔は、応仁鍔など同時代のものと共通した作風の見られるもので、室町時代後期から江戸時代初期の長い間にわたって製作され、その作柄にも変化が見られる。

与四郎式真鍮象嵌鐔

この一派は、平安城式象嵌鍔の系統に入るが、特に与四郎という在銘の鍔があるので、与四郎鍔と呼ばれる。作風は鉄地丸形で、真鍮で唐草・花・家紋などを象嵌と透かしで表現したものが典型的である。

鎌倉鐔

鎌倉鍔の名称は、その作風が木彫りの「鎌倉彫り」に大変よく似ているからおこった呼称である。よって、鎌倉鍔は鎌倉時代に作られたものでもなく、鎌倉という地名にも関係がない。

金山鐔

金山鍔の製作地は尾張国および美濃国あたりというのが定説となっている。 金山鍔が作られた時代は、室町時代中期まで遡るこができ、戦国時代が全盛期と考えられる。江戸期頃になると、尾張透し鍔一般の工法に同化し、ついには平凡な作風になってしまった。

京透し鐔

京透し鍔とは山城国 (現・京都府) で製作された透し鍔のことである。京透し鍔は、尾張透し鍔が豊満で武骨なのに対して、優雅で巧緻であり、文様はいかにも洗練されている。京透し鍔に有銘のものはない。

尾張透し鐔

尾張透し鍔は、京透し鍔とともに透し鍔の双璧をなす。その製作された年代は、室町時代後期から桃山時代を経て、江戸時代の初期に及んでいると推量される。 尾張透し鍔の特徴は、京透し鍔より力強く線の太い感じがし、また実戦第一主義により、肉置きの良好さや、鉄色の冴えがみられることである。

赤坂鐔

赤坂鍔の創始者 忠正は、京透し鍔工であったが、江戸に来て赤坂の地に居を構えて鍔を製作したと考えられる。赤坂鍔の特徴は、丸形で丸耳の透し鍔ということである。

山吉鐔

山坂吉兵衛は、尾張国清洲で兜や鍔などの武具を製作していたと推測されている。 織田信長の抱え工であったという説もあり、その真偽は定かではないが、いずれにしてもその時代に生きた人であることは確かである。銘を、姓名を略して「山吉兵」と切ることから、この手の鍔を山吉鍔と呼称する。

金家

鍔工界で一級の名人に挙げられる人に金家がいる。桃山の頃、山城国伏見に住んでいたと推量され、従来の鍔の意匠が図案的・文様的であったのに対し、金家は初めて写生的なものを採りいれ、絵風を採りいれた先覚者である。

信家

信家は、金家と並び称される名人である。金家の雅味に対して、信家の豪壮さはいかにも対照的である。 信家は、織田信長の招きによって清洲に来住し、鍔の製作にあたった。作品は、その造形・地鉄の鍛え・地紋などが優れた技術をよく表現している。

江戸金工

江戸は、徳川時代の日本の首府であったので、金工たちもこの地で技を競い合い、生まれたものが、流行の最先端として各地に波及していった。

平田派

平田派は、道仁彦四郎 ( ? - 1646)が七宝という技術を会得し、一子相伝によってその特殊な技術を継承し、徳川幕府の抱え工として活躍した。赤銅または鉄地に、緑・紫・茶・白・青・赤などの色鮮やかな七宝を施す。

横谷派

横谷派は刀装具の彫金の世界において、極めて重要な位置を占めている。横谷宗珉は寛文十年 (1670) に江戸で生まれ、「片切彫り」という筆で描いたような鏨使いと絵風の彫法で一時代を築き、後藤家が支配していた彫金界に新風を吹き込んだ。

柳川派

柳川派は、横谷宗珉の門であった柳川直政が興し、以下、直光と直春という名工が出現したことによって著名となった。柳川派はその出自もあり、横谷式の赤銅魚子地に高彫り色絵を施すという作風を最も得意としている。

石黒派

石黒派は、初代・政常が柳川直政と加藤直常に学んだので、横谷系に分類される。しかし、横谷派の作品群よりも華麗で技巧に優れた作品を作り、特に猛禽類の描写に抜きん出ている。

大森派

大森派も、横谷系の有力な分系の1つである。 大森英昌は、横谷宗珉の門人となって修行し、のち一派を構えた。養子の英秀(てるひで)、その実子の英満がそれぞれ優れた作品を作り、また、養成した門人も多かったので、この派は繁盛した。

吉岡因幡介家

吉岡家の初代・重次は、京都出身で、徳川家康に拝謁し、その招きで江戸に下り、後藤家などと共に、幕府の抱え工として繁栄した。この家は、抜群の名人こそ輩出しなかったが、多くの良工が出た。

奈良派

奈良派は、横谷派と並び、多くの系列流派を生んだ、本邦彫金界における最も重要な流派の1つである。 初代・利輝は、日光東照宮の造営工事に参加するなどして活躍し、以後、本家の家系は九代まで続いた。他に、「奈良三作」と称される、利寿・乗意・安親がこの門では有名である。

濱野派

濱野派の創業者 政随(しょうずい)もまた奈良派の出で、奈良三作の3人に次ぐ存在である。この流派の作品は、さっぱりしつつも勢いがあるのが特徴で、町彫り工として繁栄した。

土屋派

初代・土屋安親 (1670 - 1744) は出羽庄内の産で、34才の頃、江戸に出て奈良辰政の門に入り研鑚を積み、遂には安親風を大成した。彼の鍔の素材・構図・技法は多種多様で広汎なものであるが、すべての作品に詩情が感じられる。

伊藤派

伊藤派は、江戸時代の前中期頃に正長が創始し、その後明治に至るまで、その華麗かつ精巧な作風で長く人気を博した流派である。 この派の作品は、ほとんどが鉄地あるいは赤銅地を丸形の板鍔にし、題材には草木を用いることが多い。また伊藤派は、江戸のほかに小田原を本拠とする一派もあり、金工が互いに往来して交流していたと考えられる。

岩本派

岩本派は江戸金工のなかでも主要な流派で、写実的な作品を製作する。岩本家の第4代当主良寛と、第5代良寛が奈良派の作風を採り入れた作品で名を成し、さらに第6代昆寛が風流洒脱な作品を多く作り、独自の作風を完成させた。

堀江派

堀江興成 (おきなり) は、はじめ濱野政随に入門し濱野流を学んだが、明和6年に師が逝去すると、大森英秀の門下となった。のち独立して一派を成し、阿波蜂須賀家の抱え工となる。銘は、"堀江興成(花押)"と独特の草書体で切るものが多い。

田中派

田中清寿 (きよとし) は、文化元年 (1804) 会津で生まれ、若い頃には正阿弥一派の工法を学んだと考えられる。 のち、河野春明が東北を遊歴した際にその門人となり、師の春明から「明」の一字をもらい、明義と名乗ることを許された。しかし彼は、「別に師を定めず」として、その後も諸流の工法を採り入れて「東竜斎風」という彫技を編み出し、彼の作品は幕末の江戸で大きな評判を得た。

京都金工
埋忠派

埋忠氏は、代々足利将軍家の御用をつとめ、京都に作事場を構えて刀身の磨上げやハバキ・切羽などを製作していたと考えられる。明寿(みょうじゅ、1558 - 1631)は、鉄の他に真鍮や赤銅などの素材を用い、色金で平象嵌を施すという斬新な鍔を製作し、桃山時代から江戸初期にかけて埋忠派の全盛時代を築いた。

正阿弥派

正阿弥という名の由来が、足利将軍に近侍した阿弥衆であることは間違いない。正阿弥派は、室町時代末期ごろ発生したと考えられ、江戸時代になると各地に広く移動分布し、正阿弥の流派名に作者の個名を切銘する様式が多くみられるようになった。

一宮派

一宮長常は、享保六年(1721)に越前国敦賀で生まれ、彫金家を目指して京都に上り、保井高長家に入門して修行し、ついに独立した。作品は、赤銅や四分一を使用し、高彫り色絵や片切彫り象嵌を施したものが多い。

岡本派l

岡本正楽(しょうらく)は、通称を源兵衛といい、鉄屋を屋号としたので、"鉄源堂" (のちに鉄元堂) と切る銘が見うけられる。作品は、鉄屋の名のとおり鉄を使うことが多く、よく鍛錬された鉄地に、日本や中国の歴史上の人物を高彫り色絵に描くことに長けている。

大月派

大月光興(みつおき、1766 - 1834)は、20才過ぎに江戸へ出て、絵画を岸駒に学びまた円山派の影響をも受け、下絵を自ら描き、精巧で堅実な彫法で、多くの佳作を生んだ。晩年は、禅の心を感じさせる奇抜で飄逸な作品も作っている。

地方金工
秋田正阿弥

秋田は出羽国佐竹家ニ十万石の城下町で、旧名は久保田といった。この地も正阿弥一派が活躍したところで、特に正阿弥伝兵衛重吉(1651 - 1727)が有名である。彼の作品は、赤銅や四分一地を使ったものが多く、幾何学的な曲線模様をうまく組み合わせた、大胆かつ優れた意匠の鍔をたくさん残した。

庄内地方

庄内は、酒井家十四万石の城下町で、現在の山形県鶴岡市にあたる。佐藤珍久(よしひさ)は、江戸へ出て奈良派の技法を学び、庄内に帰ってからは、著名な土屋安親(女婿)や渡辺在哉(ありちか)・安藤宣時(よしとき)らを育成した。 また、桂野赤文(せきぶん)は、青年時代に江戸へ出て濱野家で修業し、庄内藩の抱え工となって活躍した。

仙台地方

仙台は、伊達家六十二万石の城下町で、藩祖・伊達政宗の頃より文化芸術への関心が高いところであった。 草刈清定は、仙台で生まれ、明和の頃江戸へ上り大森家で修業、のちに伊達家の抱え工となり活躍した。 彼の作風は、軍扇・麻の葉などを仙台式の平象嵌で斬新に表現するのが特徴である。

会津正阿弥

陸奥国・会津は、松平家二十三万石の城下町で、金工が多いところである。 この地では、「会津正阿弥」と呼ばれる正阿弥一派が多く活躍した。 あまり上手でない鍔も少なくないが、この地でわりあい上手として知られる人に、正阿弥一光(いっこう)、正阿弥兼祐(かねすけ)、その他の流派で、加藤英明(ひであき、石黒流)、加藤明周(あきちか、柳川流)がいる。 また、この地から江戸に出て大成した人に田中清寿(きよとし)がいる。

水戸地方

水戸は、徳川御三家の1つである三十五万石の城下町である。特に、江戸時代後期には多くの金工が活躍し、いろいろな種類の地金を用い、あらゆる手法を駆使した巧妙な作品を多くみることができる。 流派としては、赤城軒系と一柳系が目立つ存在となっている。

越前国

越前国・福井は、松平家三十万石の歴代の城下町として栄えた。この地域では、記内一派・明珍一派・赤尾派などが特に有名である。

加賀

加賀国金沢は、前田家百万石の城下町で、絢爛たる文化が花開いた地である。鍔においても武骨なものより優美なものが多く製作された。 前田家は特に、後藤家の人々(顕乗・程乗・悦乗・演乗)を当地に招き屋敷地を与えて厚遇したので、「加賀後藤」と称される一派はこの地で非常な隆盛をみた。

美濃

美濃は、古来から交通の要衝であり、また、京都にも近かったので、彫金が発達した地である。 鑑定上、桃山時代以前に製作されたものを特に「古美濃」と呼び、それ以降のものを「美濃彫り」という。 美濃彫りの特徴は、地金に赤銅あるいは山銅を使ったものが多くて鉄地のものはほとんどなく、また、秋草の意匠がよく使われていることである。鍔については、切羽台と耳を残して他を鋤き下げる事を常としている。

喜多川派

藻柄子宗典(そうへいし そうてん)は、近江国彦根の住人で、ほとんど鍔のみを製作した。 その作風は、鉄地丸形のものに武者や仙人などを肉彫りや象嵌色絵で表したものが多く、世に大変な人気を呼び、一世を風靡した。

長州鐔

長州藩は、他藩へ輸出して藩の財源とするために、積極的に鍔作りを奨励した。 その結果、長州は、東の会津に対して西の長州と言われるほど、鍔工とその作品の数が多いところとなった。 長州鍔の作風は一概に言えないほど多岐にわたっていて、特徴的な作風を有する流派はあまりないが、河治・中井・岡本・岡田・金子・中原・藤井・井上・八道といった各家が比較的著名である。

肥前国

肥前国とは現在の佐賀県のことで、佐賀の鍋島家(三十三万石)、平戸の松浦家、唐津の土井・水野両家などがそれぞれの領地を治めた。 鍔工としては、佐賀の若芝(じゃくし)家、または矢上の矢上一派などが知られている。 また、江戸時代に唯一の海外との門戸であった長崎では、「南蛮鍔」と呼ばれる、清国のものを模倣した独特の鍔が流行した。

肥後鐔

肥後国は、江戸時代の間、細川家によって治められたところで、藩祖の細川忠興(三斎)は名将であると同時に茶事や和歌などの風流をよくしたために、江戸や京都から遠い地にありながら、格調高い文化水準を形成した。 鍔の世界においても幾多の名工を輩出し、「肥後鐔」として現代の愛好家からも称賛されている。

薩摩国

薩摩国七十七万石は、代々島津家が支配し、この地からは鉄地に力強い意匠を用いた作品を多く見ることができる。 薩摩の地で特に名を知られているのが小田派で、直香(なおたか)、直教(なおのり)、直升(なおのり)、直堅(なおかた)などの名人がいる。 また、知識派もそれに次ぐ存在で、初代・兼矩(かねのり)、二代・兼武(かねたけ)、三代・兼値(かねあつ)などが活躍した。