奈良派
奈良派は、横谷派と並び、多くの系列流派を生んだ、本邦彫金界における最も重要な流派の1つである。
その初代の利輝は、塗物を生業とし、日光東照宮の造営などに塗師として参加した。
次の利宗の代になると、家業の塗物からは手を引き、屏風・たんすなどの金具を作る飾師となった。
そして三代目の利治になり初めて、鍔や小柄などの製作に従事するようになる。
このように奈良派は、もとは塗師から発展したという経歴を持つため、後藤家や正阿弥系などとは関係がなく、よってその作風もそれらとは違っている。
たとえば、後藤家は素材に鉄をほとんど使用せず、下地は必ず魚子地にするのに対し、奈良派は鉄を多用している。
また、後藤が採り上げる題材は獅子や草花などの一定化したものがほとんどなのに対し、奈良派ではさまざまな題材を採り上げ、それらを新しい刀法 (片切彫や肉合彫など) によって表現している。
後藤・平田・吉岡・伊藤などの各派が徳川幕府のお抱え工として上流階級を主な顧客としていたのに対し、奈良は在野で町彫り師としての傾向を強めていき、新奇なものを積極的に採り入れたため、大衆に受け入れられ非常な人気を博した。
- [ 真鍮地撫角形高彫象嵌鐔 ]
了嘉 (=川村常重)
江戸時代中期
奈良三作
奈良の門からでた名人のうち、特に名の高い3人を「奈良三作」という。
すなわち、奈良利寿・杉浦乗意・土屋安親の3人である。
奈良利寿 (なら としなが・ 1667 - 1736)
- [ 鉄地丸形高彫象嵌透かし鐔 ]
銘 "利寿(花押)"
奈良利寿
江戸中期
太兵衛という。奈良派三代目利治の門人で、縁頭・小柄を多く作る。鍔は少ない。
図柄は人物・花鳥・動物などが多く、高彫りに象嵌色絵を施したものが多い。
杉浦乗意 (すぎうら じょうい・ 1701 - 1761)
はじめ太七、のち仙右衛門と称す。戸田家の藩士の子として美濃国加納で生まれる。
戸田家が信州に転封となったのち、同藩の抱え工となる。
奈良寿永の門に入り、のち、奈良本家の利永から「永」の字を許されて永春と名乗る。
後年、剃髪してからは乗意。
地金には四分一を使うことが多く、その作は精巧である。
奈良彫りの手法に加え、「肉合彫り」 (ししあいぼり) の工法を考案した。
雅号は一蚕堂で、"一蚕堂乗意"と銘を切ることもある。
土屋安親 (つちや やすちか・ 1670 - 1744)
弥五人という。出羽国庄内藩士・土屋忠左衛門の子として鶴ヶ岡 (現・山形県鶴岡市) に生まれる。
佐藤珍久に師事して彫金を習い、のちには師の娘と結婚し、武士を廃業して彫金を本業とした。
しかし、34歳のとき、妻子を義父に預けて江戸に出府し、奈良派の辰政の門に入り修業した。
のち、独立して神田に開業する (土屋派)。
地金や構図にはさまざまなものを用い、鋤出し高彫りの工法で、詩情にあふれ、かつ親しみやすい鍔
を多く製作した。
晩年は東雨と号した。